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木曽三川を中心に活動する事を目的として

2022年7月に設立された新しい

砂利組合です

当組合の砂販売開始しました。

木曽三川の歴史

木曽川はもともと名古屋市の中心部を流れる川でした。徳川家康から加藤清正に名古屋城の築城を依頼されてから木曽川は西へ西へと人の手で移動する時代の始まりとなります。そのため木曽川には「土砂が堆積しやすい川」と性格を変えることになりました。

江戸時代には「輪中」の原形となる「御囲堤」が慶長十四年(1609年)築堤され、木曽川の水害から尾張国が守られるようになりました。

しかし、それと同時に「御囲堤」の外側の地域、美濃国は水害に苦しむ時代が始まりました。それから168年間宝暦四年(1754年)「宝暦治水」が始まるまでのあいだ110回もの水害にあう暴れ川であった木曽三川。「宝暦治水」は「宝暦治水事件」としても歴史に名を残す難工事でありました。それから更に133年後、明治二十年(1887年)明治政府により明治改修工事が始まります。

この分流工事に伴って、買収された土地は3県をあわせて29平方キロメートル、移転を要した宅地は44平方キロメートルであり約1800戸に及び多くの人の人生を変える大工事が行われ現在の姿になったのが木曽三川です。

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​明治改修工事によって木曽川には日本最大のケレップ(水制)ができ、木曽三川は完全に人工川として生まれ変わり、人の手で常にメンテナンスをし続けなければならなくなりました。

長良川河口堰建設と高度成長期におけるコンクリート等への骨材提供の役目をした木曽川。

​高度成長期経済を支えた川でもあります。長い眠りを経て再び木曽川は中部地区の経済を支える役目を担うことになりました。

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木曽川に残るケレップ水制群

木曽川下流域は土砂採取が禁止されていた二十数年間は新たな生命のための楽園が築かれました。しかし、近年の短時間集中型の降雨の発生回数が増え木曽川も昔のような暴れ川ではなくなっていますが、メンテナンスをする時期となりました。

​サスティナブルな環境を維持しながら木曽三川御囲堤砂利採取事業協同組合は地域資源である木曽細砂を計画的に採取し、安定供給を目指していきます。

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明治改修工事によって木曽川の中に建っていた唯一現存する古民家

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